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東京都目黒区の歴史
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所在地 東京都目黒区下目黒3-20-26
 
天台宗
 泰叡山 瀧泉寺
     目黒不動尊


 天台宗で泰叡山瀧泉寺(たいえいざんりゅうせんじ)といい、大同3年(808)に慈覚大師(じかくだいし)が開創したといわれています。徳川3代将軍家光が堂塔伽藍(どうとうからん)を造営し、それ以来幕府の保護があつく、江戸近郊におけるもっとも有名な参拝行楽の場所となって、明治まで繁栄をきわめました。

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 境内は台地の突端にあり、水が湧き老樹が茂り、独鈷の滝や庭の池が美しく、庶民の信仰といこいの場所でした。



 壮麗をきわめた古い建物は、戦災で大半が焼失しましたが、本堂仁王門、書院、鐘楼などの再建が着々と進められ、「前不動堂(まえふどうどう)」(都指定文化財)、「勢至堂(せいしどう)」(区指定文化財)は、江戸時代の仏堂建築としての面影を残しています。



 境内には『銅造役の行者倚像(どうぞうえんのぎょうしゃいぞう) 』『銅造大日如来坐像(どうぞうだいにちにょらいざぞう)(区指定文化財)』、『仁王門』、『大本堂』、『垢離堂』、『延命地蔵尊』、『八大童子の山』、『勢至堂』、『前不動堂』、『観音堂』、『地蔵堂』、『降魔の三鈷剣』、『独鈷の滝』、『水かけ不動尊』、『養老孝子像』、『鷹居の松跡』、『腰立不動』、『本居長世碑』、『意思不動尊』、『力石』、『男坂』、『阿弥陀堂』、『北一輝先生顕彰碑』、『三福神〔山手七福神 恵比寿天〕』、『豊川稲荷』、『地主神』、『三界万霊塔(無縁塔)』、『野村宗十郎銅像』があります。
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 裏山一帯は、縄文時代から弥生時代までの遺跡として知られ、墓地には青木昆陽(あおきこんよう)の墓(国の史跡)があります。
 昭和61年(1986)3月 目黒区教育委員会



 < 目黒不動と門前町 >

 「お不動さん」の名前で親しまれる目不動。大同3年(808)、慈覚大師の創建と伝えられるが、寺が隆盛を極めるのは江戸時代に入ってから。3代将軍・家光以来、徳川幕府の厚い庇護を受け、荘厳華麗な大寺院に生まれ変わった。
 また周辺は門前町として発展。目黒名物の飴や餅を売る店が軒を連ね、活況を呈した。
 目黒不動には「独鈷の滝(どっこのたき)」「鷹居の松(たかすえのまつ)」など、慈覚と家光の2人に因んだ伝説や挿話も多く、興味が尽きない。

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所在地 目黒区下目黒3-20-26 瀧泉寺(目黒不動尊)

 『 不動明王 』
泰叡山瀧泉寺の御本尊にして秘仏

 『 虚空蔵菩薩 』
福徳智恵を蔵する仏、大本堂にあり

 『 普賢菩薩 』
文殊菩薩と共にお釈迦さまの働きを助ける、大本堂にあり

 『 愛染明王 』
愛欲の世界をそのまま真理の世界に導く仏で一般には恋愛の仏でもある、大本堂にあり

 『 文殊菩薩 』
「三人よれば文殊の智恵」の諺通り、高な智恵を授けてくれる仏、大本堂にあり

 『 生順僧正像 』
泰叡山瀧泉寺中興の祖、天海僧正の弟子、大本堂にあり

 『 慈海僧正像 』
泰叡山瀧泉寺中興第二祖、著名な学僧、当下目黒出身、大本堂にあり







所在地 目黒区下目黒3-20-26 瀧泉寺(目黒不動尊)

  銅造 大日如来坐像

目黒区指定有形文化財(彫刻) 昭和59年(1984)3月31日指定

 不動明王の本地仏にして大本堂裏に安置



 この像は宝髪、頭部、体躯、両腕、膝等十数か所に分けて鋳造し、それを寄せて一体とした吹きよせの技法で造られている。



 体躯にくらべ頭部を大きく造るのは大仏像共通の特色で、面相も体躯も衣文表現もよく整っている。



 また、台座の蓮弁に開眼の年、入仏開眼供養の際の導師や僧俗の暦名等を記し、制作年代は天和3年(1683年)、江戸に住む鋳物師横山半右衛門尉正重作等の刻名があることも貴重である。

 昭和59年(1984)8月 東京都目黒区教育委員会



所在地 目黒区下目黒3-20-26 瀧泉寺(目黒不動尊)

 不動明王の眷属として恭敬礼拝する者を影の形に随うが如く守り衆生救済に活躍する童子たちである。不動明王の使者であり、三十六童子の代表である。

 < 向かって右から >

慧喜童子(えきどうじ)

指徳童子(しとくどうじ)

鳥倶婆誐童子(うくばきゃどうじ)

矜迦羅童子(こんがらどうじ)

不動明王(ふどうみょうおう)

阿耨逹多童子(あのくたつたどうじ)

制吨迦童子(せいたかどうじ)

慧光童子(えこうどうじ)

淸淨童子(しゅうじょうどうじ)


所在地 目黒区下目黒3-20-26 瀧泉寺(目黒不動尊)

 

開口(阿)那羅延金剛・閉口(吽)密迹金剛・階上には韋駄天を祀る



  『 仁王尊 』 仁王門に立つ金剛力士の二尊を云う

 第二次世界大戦の戦火は、目黒にも及び、昭和20年(1945)5月24日、目黒不動尊は、その一部の建物を残して灰塵に帰した。戦後の復興は、まず本堂の再建にはじまり、昭和25年(1950)いちはやくその完成をみた。次は、由緒正しき仁王門ということになった。昭和29年(1954)、ふるくから和菓子司として知られていた当地玉川屋3代目主人小川雄一氏りよ女夫妻は、すすんで仁王尊像の寄進を青木大僧正に申しいで、その制作を、当時本邦木彫界の雄として知られていた後藤良氏に依嘱した。後藤氏はこれを快諾すると同時に、これによって昭和の男性美を永久に留めたいと考えて、モデルとして窪田登氏を選んだ。ことは順調に進み、弟綿引司郎氏の協力をえて、昭和32年(1957)早春三尺の原型が完成した。それと同時に、後藤氏は76才の生涯を突如として閉じたのであった。原型から木に写す作業は、綿引司郎氏・■■正■氏・吉田暁未氏の協力によって行われ、昭和35年(1960)8月26日めでたく完成、のみ納め式が行われた。仁王門の完成をまって、昭和36年(1961)4月2日落慶式が行われた。その前夜後藤夫人イク女は、重荷をおろしたかのように急逝したのであった。



 『 狛犬 』

 この狛犬も後藤良氏の作品である。生前制作された石膏の原型は、転々ところをかえ、、そのたびに破損していった。後藤氏の曾孫安原森武氏は、彫刻家としてこれを正視するにしのびず、自らのアトリエに引きとって修理を行っていた。これを知った玉川屋の子息小川隆氏らく女夫妻は、本年4月逝去した母堂りよ女の善捉をとむらうため、その寄進を吉田貫主に申しでた。52年(1977)7月2日その落慶式が行われたのである。

  昭和52年(1977)7月5日 世話人代表 亀谷 子 ■記


所在地 目黒区下目黒3-20-26 瀧泉寺(目黒不動尊)

 < 野村宗十郎銅像 > 



君諱宗十郎安政四年五月四日出于長崎薩摩屋敷服部氏出嗣堅邦■少入新街新塾受活版術于昌造本木翁明治六年入東京大学予備門■病退十二年任大蔵省銀行局員尋轉主計局二十二年辤官入築地活版製造所四十年奉社長君之在社也晨起夜寐看社務遊■技嘗創九波■活字問諳桒■発大阪博覧会九波因行乎巫昉于払也大正二年官賜藍綬褒章賞馬受又慨活字常軆紛乳如決決諮衆家出又省略點劃肌論■可讀不可讀其■力■啇於活版術也経任国語調査会委員焉十二年■関東地震災起活版所帰烏有氏日夜勤勉■厭復興胡■■■假年俄然病歿大正十四年四月二十三日也特旨叙正七位  文学博士遠藤隆吉記

昭和五年六月上浣
堀 進二作像
亀田雲鵬 書
 



昭和五年六月

建設委員

 石丸祐正
 島連太郎
 大澤長橘

築石者

 ■田保治郎


所在地 目黒区下目黒3-20-26 瀧泉寺(目黒不動尊)

 独鈷の滝(とっこのたき)



 このお滝は今を去る1200年程前、泰叡山瀧泉寺をお開きになった慈覚大師円仁が堂塔建設の敷地を占って、御自身が持っていた独鈷(とっこ)を投げたところ、忽ち滝泉が湧き出したので之を「独鈷の滝(とっこのたき)」と名付けられた。それより今日迄どんなに旱天が続いても涸れることもなく、滔々と落ちており、長く不動行者の水垢離の道場として利用されてきた。
 今日都内では大変珍しい名所である。

泰叡山瀧泉寺



所在地 目黒区下目黒3-20-26 瀧泉寺(目黒不動尊)

 泰叡山瀧泉寺は大同3年(808年)天台座主第三祖慈覚大師円仁(えんにん)の開基で、大師自ら尊像を彫刻して安置したのに創まる。天安2年(858年)堂于を造営するに際して、大師が所持の独鈷を投じて、建設の敷地を卜したところ滝泉忽ち湧き出したので「独鈷の滝(とっこのたき)」と称してより、今なお千百有余年絶えず湧出している。大師はお堂の棟札に「大聖不動明王心身安養呪願成就瀧泉長久」と付記して瀧泉寺と名付け、貞観2年(860年)、清和の御代に「泰叡」の勅額を下腸されるにおよび山号を泰叡山と定める。爾来、関東最古の不動霊場として、幾多の霊験が伝えられている。浄域の風情は春の花、夏の滝しぶき、秋の紅葉、冬の雪と四季折々に、自然の如法の姿が、参詣される善男善女の心に安らぎをもたらしている。



    
< 目黒不動尊ご詠歌 >

 清らけき 目黒の杜の 独鈷滝

    さいやく難を 除ける不動尊




 ここに、目黒のお不動さまと諸願成就の縁を結び大願が円成するよう身代わりとなって、水を浴びて下さる「水かけ不動明王」が造立され、より清らかな心と身で、大慈大悲の不動明王に参詣できるようになったのである。

 平成8年(1996年)5月吉日 泰叡山瀧泉寺


所在地 目黒区下目黒3-20-26 瀧泉寺(目黒不動尊)

 滝泉寺前不動堂 附 扁額一面
   東京都指定有形文化財 昭和41年(1966)3月31日指定

 『江戸名所図会』天璣之部、目黒不動堂の条に、現位置附近に「前不動」として図示されている。扁額「前不動堂」には「佐玄竜書」の署名があるが、著者佐々木玄龍は通称万次郎、池庵を号する。慶安3年(1650)江戸に生まれ、書風一家をなし、享保7年(1722)歿した。この扁額は堂建立当時のものと思われる。



 滝泉寺本堂前石階の下、独鈷滝の左の崖下にあり、内には本尊木造不動明王立像などを安置し庶民信仰の便を計ったものと思われ、江戸時代中期の仏堂建築として比較的よく旧規を保っている。



 東京都文化財保護条例{昭和51年(1976)3月31日}により、文化財の指定種別を都重宝から東京都指定有形文化財に変更しましたので、石造標識については、このように読み替えて下さい。

  昭和52年(1977)11月3日建設 東京都教育委員会


所在地 目黒区下目黒3-20-26 瀧泉寺(目黒不動尊)

鷹居の松跡(たかすえのまつあと)

 徳川3代将軍家光が寛永の頃(1630年頃)不動尊の近くで狩猟中に、かわいがっていた鷹が行方不明になりました。そのとき不動堂別当の実栄という僧に祈らせたところ、鷹はたちまちここにあった大きな松の枝に飛びもどってきたと伝えられています。今はその松の跡だけが残り標石が立っています。

 家光は大いに喜び、この松を「鷹居の松(たかすえのまつ)」と命名するとともにこの不動尊を深く尊信し、火災のために堂塔ことごとく烏有に帰した当寺再建のため堂塔を寄進し、寛永11年(1634)には諸堂末寺等50余棟に及ぶ壮大な堂塔伽藍が完成したといいます。



 また、歴代の将軍も家光の志を継いで参詣する者が多く、江戸庶民もその風にならい、不動信仰は隆盛を極め江戸随一の名所となりました。

  平成元年(1989)3月 東京都目黒区教育委員会


所在地 目黒区下目黒3-20-26 瀧泉寺(目黒不動尊)

 『 滝泉寺勢至堂 』 目黒区指定有形文化財(建造物)
                 昭和59年(1984)3月31日指定

 『 勢至菩薩 』 
観音さまと共に阿弥陀さまを助ける理性の仏さま、勢至堂にあり

 滝泉寺勢至堂は江戸時代中期の創建とみられ、建築各部に後世の改変が甚しいが、全体的な刑姿や細部絵様に優れた意匠の特質を保存している。特に前不動堂との関連でその細部絵様の一部に寛永中興期の滝泉寺の面影を伝えていることは注目すべきである。

 また、現在の敷地は当所からのものではなく、昭和44年(1969)以降に前不動堂の手前より移築されたものであるが、今では南斜面の縁の中に溶け込み、滝泉寺境内の優れた景観を形成する貴重なものである。

 昭和59年(1984)8月 東京都目黒区教育委員会


所在地 目黒区下目黒3-20-26 瀧泉寺(目黒不動尊)

妙なる力に おこされて
二度世に立 不動尊
かめの祝の 末広く
朝日ののぼる みごとさで
東都のつどい 善男女
すくいとらすぞ 妙なる力

  昭和32年(1957)12月15日 泰叡山瀧泉寺



所在地 目黒区下目黒3-20-26 瀧泉寺(目黒不動尊)

 童謡は第一流の詩人が子供のために詩を書き第一流の音楽家が曲を付けた世界に誇る日本の児童文化財です。本居長世は音楽学校で中山晋平、弘田龍太郎を教えるかたわら「七つの子」「青い目の人形」「赤い靴」「めえめえ小山羊」「お山の大将」のような作品を自身作曲して世に送りました。ことに大正9年(1920)、野口雨情の詩に作曲した「十五夜お月さん」はいかにも日本的な旋律に変奏曲的な伴奏を配したもので、この種の先駆的作品として重んじられました。本居長世はこれらの曲を作ったころ、この目黒不動のすぐ隣に住んでおり、月の夜この瀧泉寺の境内を散歩しながら想を練ったことでしょう。
 今ここに本居長世氏の曲の碑を建てて、氏の功績を記念したいと思います。

     本居長世を慕う会
     童謡の里めぐろ保存会


所在地 目黒区下目黒3-20-26 瀧泉寺(目黒不動尊)

 『 地蔵菩薩 』
大悲をもって凡ゆる人間を教化、救済して下さる仏さま
地蔵堂にあり

 『 閻魔大王 』
地獄の仏として人間生前の罪を判する王
地蔵堂にあり

『 三途の河婆 』
人間の死後、三途の河を亙る時、助勢をしてくれる老婆
地蔵堂にあり


所在地 目黒区下目黒3-20-26 瀧泉寺(目黒不動尊)

 『 観世音菩薩 』
江戸三十三観音の一つで慈悲の仏さま、聖観音、千手観音、十一面観音、観音堂にあり



所在地 目黒区下目黒3-20-26 瀧泉寺(目黒不動尊)

 『 銅造 役の行者倚像(えんのぎょうじゃいぞう) 』
     目黒区指定有形文化財(彫刻)  
        昭和59年(1984)3月31日指定

別名『神変大菩薩』とも云い、修験道の開祖、足・腰を強靭にしてくれる。




 この像はやや痩せ形の神秘的な面相、均整のとれた体躯や手足の表現、法衣や袈裟の衣文のしわなどもまことに巧みで江戸時代の銅造彫刻としては優れた遺品の一つである。



 また、像の腹部、胸部、腕部等に寛政8年(1796)神田に住んでいた鋳工大田駿河守藤原正義作の刻銘があることも貴重である。

  昭和59年(1984)8月 東京都目黒区教育委員会



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